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第23走 カトマンズからヒマラヤを望む 前編:私たちの旅の終わり 時田@長3

カトマンズからヒマラヤを望む    前編:私たちの旅の終わり

 学期末、試験勉強に追われながらも僕の頭の片隅にあるのは、来たるべき長期休暇中の旅行のことだ。学生の特権のひとつは、ひと月以上の休みが年に二度もあることで、それを思えば勉強も苦が和らぐというものである。

 10年ほど前(20歳のとき)に初めてひとりで中欧を旅行してから海外旅行の虜となり、まとまった休みがあるたび飛行機に乗った。これまで訪れた国の数は25ほどを数えるが、同じ国を二度訪れたことはほとんどない。それは「今まで行ったことのない国、見たことのない景色、体験したことのない文化」を旅行に求めているからだろう。しかし(何事にも例外はある)、この春休みに行ったネパールは9年ぶりの再訪であった。

 

 再訪の目的は、「エベレスト街道」というトレッキングコースを歩くことだった。主要な地点を回るには10日間ほど必要で、首都カトマンズと麓の町をつなぐフライトは欠航が多いため、トレッキングの日程の前後数日も予備として見ておく必要がある。それに日本からの往復を加えると、2週間の休みでも十分とは言えない。ネパール初訪問時には、別のエリアの「初心者向け」とされるトレッキングコースを歩いたが、その後数年経ち、次はもう少しだけ長い距離、長い日程のルートを歩きたいと思って、ロンリープラネットの"Trekking in the Nepal Himalaya"を買った。しかしそれだけの休みを、それもトレッキングに適した時季に取ることは難しく(当時僕は会社勤めをしていた)、実現せずじまいだったのだ。

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 ロンリープラネットを詰めたバックパックを背負って降り立ったトリブバン国際空港(カトマンズ)は、相変わらず地方空港のような質素さを保っていた。それでも当然ながら時は流れていて、9年前にはなかった携帯電話キャリアのカウンターでSIMカードを購入した。

 地図や高山病の薬[1]や塩素系タブレット[2]などを揃えながらカトマンズに2泊したあと、小型のプロペラ機に乗ってエベレスト街道トレッキングの起点となるルクラという町に向かった。このフライトは1時間足らずの距離ではあるが事故率は世界最悪レベルで、離陸前後は小型機特有の動きに少し緊張していたものの、そのうち機体の揺れも安定し、うとうとしてきたところで、何の前触れもなく着陸した。唐突に思えたのは、その空港が崖の上にあるからで、視界が限られている乗客からすればまるで山の中に突っ込んだような感覚、着陸というより「着崖」とでも言うべきものだった。

 



[1] 少しは医学生らしい話題をひとつ:高山病に使われるのはダイアモックス®という薬で、一般名はアセタゾラミド。ちょうど最近、薬理学の授業で炭酸脱水酵素阻害薬として教わった。作用機序としては、尿細管で重炭酸イオンの再吸収を阻害することで尿がアルカリ性に傾き、血液のpHは下がる。アシドーシスをきたすため呼吸中枢が刺激され、換気量が増えて酸素不足を改善する、ということらしい。副作用の利尿が困ったもので、寝袋の中で目が覚め尿意を感じたときは、白いため息が出たものだ。寝袋を開けて寒気の中に飛び組み、冷えきった靴を履き、ヘッドライトをつけ、トイレットペーパーを持ち、冷たい金属製の鍵で施錠したところで、ようやくトイレに向かうことができるからだ。

[2] トレッキング中はボトルに水道水をくんで持ち運ぶが、水は煮沸するかこのタブレットを入れて消毒する。なお下痢を引き起こすランブル鞭毛虫は塩素でも死なず(帰国後の授業で学んだ)、おそらくこの寄生虫が原因で、ある夜、一晩中下痢と嘔吐に苦しんだ。

十数人乗りのプロペラ機の機内

 

 

500メートルもない滑走路。離陸時には下り坂に、着陸時には上り坂になる。

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 エベレスト街道を歩くときに知っておくべきマナーのひとつは、ヤクを優先しろ、である。この街道の物流のすべてを支えるのは、家畜[1]と人(ポーター)の足であり、エンジンではない。ヤクの隊列はときに十数匹を超え、狭い道では我々は山側に立ち(谷側では何かの拍子に落とされる危険がある)、彼らがのろのろと通り過ぎるのを待つ。そこに残るのは排気ガスではなく、糞の匂いだ。

 このヤクの糞は思いがけぬところで役に立つ。一日の行程を歩き終え、あとはロッジで過ごすのみとなると、就寝するまでほとんど食堂にいることになる。なぜなら食堂にある薪ストーブが、ここにある唯一の暖房だからだ。そしてこのストーブの良い燃料になるのが乾燥したヤクの糞なのだ。ここまで糞をありがたく思ったのは生まれて初めてだろう。

 ストーブの周りには、自然とトレッカーや宿のスタッフが集まる。それぞれが静かに本を読んだりしていることもあれば、会話が始まることもある。そのようにして顔なじみになったトレッカーと、次の日、道中で出会ったり(だいたい同じようなコースを歩いているのだ)、ときに数日経ってから、数十キロ離れた街で再会したりする。

 



[1] ヤクは標高4000m以上にしかおらず、それより低地ではロバやゾッキョ(ヤクと水牛の交配種)が荷物を運ぶ。

数十キロはあろうかという荷物を運ぶ地元のポーターたち

ロッジでは皆でストーブを囲んで暖を取る

 そのようにして出会ったトレッカーたちの半数近くは、半年や一年といった長期の計画で世界各地を巡っていた。しかしそうした彼らの旅も、ここネパールで終わりを迎える運命にあった。この頃、イタリアやスペインで急速に感染が広がり、世界中の国が国境は閉ざし始めていた。これまでの旅の行程はそれぞれだが、次の行き先はみな母国という点で共通していた。この山を降りたら、イスラエル人はイスラエルに帰り、台湾人は台湾に帰るのだ。旅行者でこの感染症の世界的な渦から逃れることはできる者は誰ひとりとしておらず、僕もこの後、思いがけない形でこのうねりに巻き込まれることになった。

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 標高が上がるにつれ、寝袋の上にかぶせる毛布の枚数は増え、食事時には手袋をしてスプーンを持つようになり、夜中トイレに行くと流すためのバケツの中の水は凍っており、カメラやスマートフォンは文字通り肌身離さず身につけていなければ低温により不具合を起こすようになった。上り坂はよりきつくなり、血中酸素濃度は下がり、いっとき軽い高山病になりながら高地順応していった。食事はまずくなるのに値段は上がり(もちろん食べ物が提供されるだけでありがたいのだけれど)、充電とWi-Fiは(4000mを超えるとほとんどないが、あっても)時間単位で有料となった。

 

 標高2860mのルクラから登り始めて8日目、今回の最高地点であるカラパタール(5645m)に到達した。運良く天気は快晴で、ヒマラヤの景色も美しかったが、そこは岩場の上で、強く冷たい風が吹き、身体を動かさずにいると冷えてくる。10分ほどパノラマを楽しんでから下り始めた。

標高4950mで測った血中酸素飽和度。88%は下界では対処が必要となるレベルだが、この標高では問題ない。高地順応がうまくいっていないと、これよりさらに低い値となる。

スマートフォンで測ったカラパタールの標高

カラパタールから望むエベレスト山頂。

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 下りは登りの半分の日数もかからなかった。単純に登る方が時間がかかることに加え、一気に標高を上げると高山病のリスクが高まるので上りには時間をかける必要があるが、下りはその心配がないからだ。一週間ぶりの洗髪は最高に気持ちよく、洋式の水洗トイレを目にしただけで感動を覚えた。

 トレッキングの起点となったルクラに戻り、翌朝カトマンズに飛ぶフライトの手配をした。その日の道中に出会い、同じ宿にチェックインした日本人男性と夕食を取っていると、予期せぬ知らせが飛び込んできた。

(後編に続く)